福岡高等裁判所 昭和53年(ネ)663号 判決 1982年6月21日
控訴人(附帯被控訴人)
北九州市
右代表者病院事業管理者病院局長
竹内鑛
右訴訟代理人
二村正巳
右同
饗庭忠男
被控訴人(附帯控訴人)
池本美穂
右美穂法定代理人親権者父兼被控訴人(附帯控訴人)
池本和紀
右美穂法定代理人親権者母兼被控訴人(附帯控訴人)
池本俊子
右三名訴訟代理人
前野宗俊
同
三浦久
同
吉野高幸
同
安部千春
同
高木健康
同
神本博志
同
池永満
同
中尾晴一
同
田邊匡彦
主文
一 原判決中、控訴人(附帯被控訴人)敗訴部分を取消す。
二 被控訴人(附帯控訴人)らの各請求を棄却する。
三 本件附帯控訴をいずれも棄却する。
四 訴訟費用(附帯控訴費用を含む。)は、第一、二審とも被控訴人(附帯控訴人)らの負担とする。
事実《省略》
理由
第一当事者及び被控訴人美穂の出生とその診療の経過
一被控訴人和紀、同俊子が被控訴人美穂(以下、単に「美穂」ともいう。)の両親であり、控訴人が八幡病院を経営していること、美穂は、昭和四七年一月三〇日中島医院において在胎期間三一週、生下時体重一六七〇グラムで出生し、保育器に収容された後、同年二月二日午後八時一五分ころ八幡病院に転院して来たこと、同病院小児科医師今井義治は、直ちに美穂を保育器に収容し、酸素を一分間に二リットルの割合で投与し、翌三日午後八時三〇分に投与を中止し、同月四日午後三時三〇分ころ、核黄疸防止のため新鮮血の交換輸血を実施したこと、同年三月三〇日までは保育器に収容していたが、同月三一日から漸次器外環境に順応させるため、数時間づつ器外で保育し、同年四月四日以降五月一五日に退院するまでの間は完全に器外で保育したこと、同年七月一一日同病院眼科委託医原駿が美穂の眼底検査を行い、左眼に未熟児網膜症の疑いがあると診断し、同月二五日には両眼とも未熟児網膜症と診断し、同日小倉病院に転院させたことは、当事者間に争いがない。
二右当事者間に争いのない事実と<証拠>を綜合すると、次のとおり認められる。
1 美穂は、昭和四七年四月五日出産予定であつたのに、在胎週数三一週で出生した早産児であり、分娩には異状がなく、チアノーゼは見られなかつたが、同年二月二日午後八時一五分ころ八幡病院に入院した時には、三日間程ミルクの摂取がなく、生下時体重一六七〇グラムであつたのに一四一〇グラムに減少して体重の低下が甚しかつたうえ強度の黄疸が現われ、かつ、体温32.5度と極度の低体温であり、脈拍一二〇・呼吸四〇で、胸骨部が陥没している状態であつた。そこで、同病院小児科医師今井義治は、美穂を直ちに保育器に収容し、酸素を一分間二リットルの割合で投与したが、チアノーゼ、無呼吸発作がないため、翌三日午後八時三〇分ころに酸素投与を中止した。しかし、黄疸が非常に強くなつて来ていたので、同月四日午後三時三〇分ころ、核黄疸防止のため新鮮血の交換輸血(二〇〇cc)を実施した。その後も、極度の低体温の状態が続き、発育も極めて不良であつたが、同月一九日ころに至り、黄疸は軽減し、新生児反射も正常となり、体重も順調に増加して来るようになつた。三月三一日から漸次器外環境に順応させるため、数時間づつ保育器外で保育し、四月四日以降五月一五日退院時まで完全に器外で保育した。
2 今井医師は、美穂について、器外保育開始後その入院期間中、四月四日、同月一一日、五月九日の三回に亘り、同病院眼科に依頼して眼科疾患の有無につき受診させた。同病院眼科医師原駿は、右依頼に応じその都度、散瞳剤により散瞳させたうえ直像鏡を用いて美穂の眼底を検査したが、特段の異状所見を認めなかつた。
3 今井医師は、五月一五日、美穂を退院させる際、母親である被控訴人池本俊子に対し、未熟児養育上の種々の注意を与えたほか、二週間毎に来院して受診させるよう指示した。美穂は、退院後、六月一三日、同月二七日、同病院に来院し、眼科においても受診し、医師原駿は、前同様の方法により美穂の眼底を検査し、特段の異状を認めなかつたが、七月一一日来院し、眼科において受診した際、原医師は、美穂の左眼の眼底耳側周辺部に灰白色の混濁を認め、左未熟児網膜症の疑いと診断したが、なお病状の経過を観察するため、再検査をなすこととし、小児科の今井医師に対し「左未熟児網膜症の疑、眼球動揺のため詳細不明、再検を期します。」と連絡した。次いで、七月二五日、原医師は、受診のため来院した美穂の眼底を前同様の方法により検査し、右眼にも左眼同様の病変を認め、今井医師と協議のうえ、光凝固治療を依頼するため市立小倉病院に転医させることとした。
4 小倉病院眼科医師栗本晋二は、七月二八日、美穂の眼底を検査し、両眼とも既に未熟児網膜症の瘢痕期に達しており、右が二度、左が三度の瘢痕の状態であると診断し、すでに光凝固治療の時期を逸しているものと認められたが、網膜剥離がさらに拡がるのを防止する目的で、光凝固を施術した。しかして、美穂の視力は両眼で0.02程度の失明同様の状態にあり回復の見込はなく、視覚障害により一級の身体障害者となつている。
以上のとおり認められ<る。>
第二未熟児網膜症の歴史的背景、同症の臨床経過、発生原因
未熟児網膜症の歴史的背景、同症の臨床経過、発生原因については、当裁判所も原審と同一の認定をなすものであるから、原判決理由中三、1ないし3(同判決九六枚目裏四行目から一〇五枚目裏四行目まで―但し、原判決九六枚目裏一二行目の「填殖症」を「増殖症」、同一〇三枚目裏一二行目の「「P2O2」を「PaO2」、同添付別紙文献目録中番号19欄の「本的繁昭」を「本多繁昭」とそれぞれ改める。)を引用する。
第三控訴人の責任について
一被控訴人らは、今井医師及び原医師において、本件当時、美穂の本症による失明の危険を予見し、かつその結果を回避する可能性があつたにも拘らず、本症の発生さえ予見せず、その結果美穂を失明同然に至らせた過失がある旨主張するので、以下検討を加える。
二先ず、本件当時、本症につき失明ないし失明同然の視覚障害の発生を防止しうる治療法が確立していたか否かが検討されなければならない。
本件証拠として提出された原判決添付の別紙文献目録記載の各文献ならびに<証拠>を綜合すれば、次のとおり認められる。
1 光凝固法は、成人の網膜剥離の治療ないし予防のため開発された治療法であつて、人工光線を眼底に焦点照射し焼灼して人工的に瘢痕を形成させることによつて、網膜剥離が拡がるのを防止するものである。永田誠は、昭和四二年、右光凝固法を未熟児網膜症の治療に用いるとの着想に基づき、前示オーエンスの分類の二期から三期へ移行して進行する活動病変を呈する二症例について、網膜周辺部の新生血管の増殖の盛んな部位に対して光凝固を施したところ、病変の進行を頓挫させることができ、その後の観察によつても眼底は周辺部の光凝固の瘢痕以外はほぼ正常であつた旨を発表し、続いて、昭和四五年五月発行の「臨床眼科」二四巻五号において、光凝固を施術した四症例について同様の著効を認めた旨追加報告をなし、更に、同年一一月一五日発行の「臨床眼科」二四巻一一号において、昭和四一年八月から昭和四五年六月末までに未熟児網膜症について光凝固治療を行つた一二例について報告し、活動期三期までに光凝固を施術した一〇例はいずれも後極部に殆んど瘢痕を残すことなく治癒した旨発表した(永田誠が、以上のとおり三回に亘り、光凝固施術例を発表したことは当事者間に争いがない。)。
2 永田誠の第一回の発表は極く一部の研究者の注目を惹くにとどまつたが、大島健司、田辺吉彦、上原雅美ら研究者によつて未熟児網膜症に対する光凝固治療の追試が行われ、昭和四六年以降その追試結果が次々と発表され、一方、山下由紀子らによつて、結膜上から局所を極低温に冷凍する手法によつて網膜剥離を治療ないし予防する冷凍凝固法を未熟児網膜症の治療に試み光凝固法と同様の効果をえた旨の臨床実験結果も報告され、以後逐年、本症に関する研究が進められ、また、光凝固ないし冷凍凝固の施術例が増加していつた。かくして、本症に対する光凝固法・冷凍凝固法は徐々ながら一般臨床眼科医にも注目されるようになつて来た。
3 しかし、他方、光凝固・冷凍凝固は、人体に対する医的侵襲であつて、これによつて人工的に形成された瘢痕(凝固斑)が半年以上経過すると網膜・脈絡膜全層を貫通する組織欠損となり、凝固斑の中に真白な強膜が露出している事実が屡々観察されること、新生児の眼は、眼軸長ひとつとつても成人の24.35ミリメートルに対し19.45ミリメートルと小さく、今後二割以上発育しなくてはならないのに、光凝固によつて網膜の周辺部を広範囲に亘つて焼灼し人工的に瘢痕を形成させることにより、網膜・脈絡膜・強膜の相対的位置関係を固定させてしまうため、成人に達するまでの眼球の発育途上に悪影響を生ずるのではないかと危惧されること、永田誠らが本症に対して行つた光凝固の試行が厳密なコントロール・スタディ(対照試験)を経ていないため、治癒効果を正確に判定できないことなどから、自然治癒率の高い本症(八〇ないし九〇パーセントはなんらの視覚障害を残すことなく治癒するといわれている。)に光凝固を施術することを疑問視する見解も当初から有力であつた。
4 乳児の失明という極めて深刻な事態に対する社会的要請が先行したため、本症に対する光凝固・冷凍凝固治療は、試行、追試、遠隔成績の検討、自然経過との比較、治療効果と副作用の確認とその教育、普及という医学の常道を踏むことなく、一部の医療機関において相当数実施されるようになつた。しかしながら、本症の臨床経過は多様であり、しかも、研究の進展に伴い、従来の分類法にあてはまらない経過を辿つて網膜剥離に至る型の存在が明らかになり、また、本症につき光凝固・冷凍凝固の適応、限界を定めるうえで、眼科医の間にその診断及び治療基準に統一を欠いている点があつて右光凝固・冷凍凝固が乱用されているとの警告が発せられるなど、社会的にも混乱を招いていることが改めて認識されたため、昭和四九年、本症の診断及び治療基準に関する研究を行うため、厚生省特別研究費補助金により研究班が組織され、昭和五〇年、「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」と題する報告がなされた。
5 しかして、右報告は、本症の治療には未解決の問題点がなお多く残されており、現段階で決定的な治療基準を示すことが極めて困難であるとし、現時点における治療の一応の基準を提出するものであると前置きしたうえで、Ⅰ型網膜症については二期までの病気のものに治療を行う必要はなく、三期に入つたものでも自然治癒する可能性が少くないので進行の徴候が明らかでないときは治療に慎重であるべきである、Ⅱ型網膜症は極小低出生体重児で未熟性の強い眼に起きるので、このような条件をそなえた例では綿密な眼底検査を可及的早期より行うことが望ましい無血管帯領域が広く全周に及ぶ症例で血管新生と滲出性変化が起こり始め、後極部網膜血管の迂曲・怒張が増強する徴候が見えた場合は直ちに治療を行うべきであると述べ、続いて、光凝固・冷凍凝固の各治療方法の基準を示しているものの、その治療基準に関して、これは現時点における研究班員の平均的治療方針であるが、これら治療方針が真に妥当なものか否かについては更に今後の研究を俟つて検討する必要があると重ねて付言している。しかして、右治療基準は、その適応、治療手法の点において研究班員の合意に達しないので曖昧な表現にとどめられている点もかなりあり、本症に対する治療法として、なお研究段階の過程にあることを如実に示している。
6 馬嶋昭生らは、昭和五一年、片眼凝固の臨床経過について報告し、うち83.3パーセントは非凝固眼が自然治癒し、結局光凝固の必要がなかつたこと、したがつて、Ⅰ型網膜症については三期の中期に至るもなお進行を停止しないものに限り光凝固を施術すべき旨の見解を述べ、これに賛同する意見は可成有力であるが、他方、永田誠らは、Ⅰ型網膜症にあつては、三期の中期以後まで進行したものであつても、極めて軽度の瘢痕を残すのみで自然治癒するものがあることを認めつつも、自然治癒による瘢痕は、たとえ軽度の瘢痕であつてもこれが近視、斜視あるいは将来の晩発性網膜剥離等の原因となりうるので、これを予防するため光凝固を施術する必要があると主張していて、この点に関し見解の対立がある。
7 Ⅱ型網膜症は、Ⅰ型の如き段階的経過を辿ることなく、比較的急速に網膜剥離へと進むものであり、光凝固・冷凍凝固によつて治療するのは困難である。未熟児網膜症は光凝固治療によつて失明に至るのを回避することができると主張していた永田誠も、その後Ⅱ型網膜症に遭遇して治療に失敗し、硝子体手術の手法の研究を開始している。現在においても、なお、本症における網膜剥離の機序は未解明であつて、光凝固によつて視覚障害を防止しうるとの保障はない。現に、東京都心身障害者福祉センターの調査報告によると、光凝固を受けたにも拘らず視覚障害児となつた者の比率が増加している。
8 しかして、最近においては、Ⅰ型網膜症は治療すべきものではなく、予防すべきものであり、Ⅱ型網膜症の治療法は未だ研究段階にあるとの見解も有力である。未熟児医療の先進国である欧米においては、本症に対する治療法として、光凝固はほとんど用いられていない。
以上のとおり認められ<る。>
右認定事実によれば、美穂に対し、たとえ適期に光凝固・冷凍凝固を施術したとしても、本件視覚障害の発生を防止しえたか否かについては疑問の存するところといわざるをえないが、この点については暫く措くこととする。
さて、医療従事者に課せられる注意義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準であることはいうまでもない。臨床医学も、学問として日々研究が進められて日進月歩に発展し、新規の治療法が開発されて行くものであるが、新規の治療法が論文発表されたことによりこれが直ちに新治療法として「臨床医学の実践における医療水準」となるものでないことは多言を要しない。新治療法として発表されたものについて、数多くの追試が行われ、遠隔成績の検討、自然経過との比較、治療効果と副作用の確認がなされ、学界レベルで一応正当なものとして認容された後、これが更に教育、普及を経て、臨床専門医のレベルで治療方法としてほぼ定着するに至ることによつて、初めて「臨床医学の実践における医療水準」として確立されるのである。
前記認定事実と<証拠>によれば、本症に対する光凝固・冷凍凝固治療は、現在においてもなお今後の研究によつて解明されなければならない問題点が存するものであり、本件当時である昭和四七年においては、もとより、未だ先駆的研究者の間で実験的に試みられ、またその追試として行われていたに過ぎず、臨床専門医のレベルで治療法としてほぼ定着していたものということは到底できず、昭和五〇年に至り、前記厚生省研究班報告「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」が発表され、本症の診断、治療に関し一応の基準が提示されることによつて、ようやく、臨床専門医のレベルで治療法として定着し始めたものと認められる。
そうだとすれば、本件当時においては、臨床医において、本症について適期に光凝固治療を受けさせなかつたとしても医療の業務上特段の注意義務の懈怠があつたものということはできず、また、右治療方法につきなんらの説明、療養指導をしなかつたからといつて、いわゆる説明義務、療養指導義務違背があつたということもできない。
三ところで、原審証人今井義治、同原駿、同栗本晋二の各証言によれば、北九州市立小倉病院においては、昭和四七年五月から、栗本晋二医師によつて本症に対し光凝固治療が開始されていたこと、今井医師及び原医師は、右治療開始の事実を知つていたことが認められ、これに反する証拠はなく、今井医師および原医師は、美穂の眼底に異状所見のあることを確認した後、右小倉病院に転医させて光凝固治療を受けさせたが、既に瘢痕期に達していて光凝固の適期を失していたものであることは、前判示のとおりである。
しかしながら、当裁判所は、前示のとおり、美穂が本症を発症した昭和四七年当時においては、本症に対する光凝固治療は、未だ臨床専門医のレベルで治療法として定着するに至つていなかつたものと認定するものであり、したがつて、今井医師及び原医師において、美穂について適期に光凝固治療を受けさせなかつたこと、あるいは、同治療に関する指導をしなかつたことは、当時における「臨床医学の実践における医療水準」に照らし、なんら注意義務の懈怠となるものではないと判断するものであるが、なお念のため、本症の発見が遅れたことに関して、今井医師および原医師に注意義務の懈怠が存するか否かにつき検討する。
<証拠>によれば、本症に対し光凝固・冷凍凝固を適期に的確に実施するためには、眼底の周辺部まで精密に観察することのできる両眼立体倒像鏡またはポンノスコープを用い、生後満三週以降において定期的に眼底検査を施行し(週一回)、三か月以降は、隔週または一か月一回の頻度で六か月間まで行い、発症を認めたときは、必要に応じ、隔日または毎日眼底検査の必要がある、とされていることがうかがわれ、更に、原審証人今井義治、同原駿の各証言によれば、次のとおり認められる。
1 今井医師は、内科、小児科を専門とし、昭和四六年六月から八幡病院に小児科部長として勤務していたものである。昭和四七年一月当時、同病院においては常時二ないし六名の未熟児を保育していたが、眼科との取決めによる定期検査は実施しておらず、今井医師の判断によつて適宜眼科受診をさせていた。当時、今井医師は、保育器内の酸素濃度を四〇パーセント以下に制限すれば本症発症の危険はないものと考えていたことから、高濃度の酸素を使用した場合のみ早期に眼科受診させることに努め、眼科への受診依頼の紹介状にもその旨を付記していた。美穂については酸素使用量が少なかつたことから、本症発症の危険よりは、寧ろ、未熟児として先天性の眼科疾患を有する危険を考えて、眼科受診をさせた。
2 原医師は、眼科を専門とし、本件当時八幡病院眼科の委託医として週二回その診療を担当していた。同医師は、同病院において昭和四六年ころから未熱児の眼科検診の依頼を受けるようになつたが、未熟児の眼底検査につき特に訓練を受けた経験はなかつた。同病院には眼底周辺部まで精密に検査しうる高性能の倒像鏡の備付がなかつたことから、同医師は、取扱いに習熟していた直像鏡を用いて未熟児の眼底検査を行つていた。同医師は、本件に至るまで本症に遭遇したことがなかつた。
以上のとおり認められ<る。>
更に、<証拠>および原審鑑定人大島健司の鑑定の結果を綜合すれば、次のとおり認められる。
1 わが国においては、昭和四〇年ころから、未熟児について本症発症の危険があり、定期的眼底検査の必要のあることが警告されて来ていたが、未熟児は産科医ないし小児科医の管理下に保育されていたこと、欧米とは異り旧式の保育器の使用が続いたことが却つて幸いして本症の発症が稀であつたこと、本症の危険を訴える論文等が主として眼科関係の文献に掲載されたため、これが産科医、小児科医の目に触れることが少なかつたことなどから、未熟児の眼科管理は遅々として進まず、極く一部の研究者によつて試みられているに過ぎなかつたが、昭和四五年度に至り厚生省医療研究助成補助金による眼科、小児科関係者の研究班が結成されるなど未熟児網膜症の研究がようやく軌道に乗り、昭和四六、七年を契機として、急速に諸処の未熟児収容施設で眼科管理が試みられるようになり、産科医、小児科医の間に未熟児につき眼底検査の必要のあることが認識されて来て、次第に眼科医による眼底検査が実施されるようになつた。
2 しかし、本症は、極めて多様な病像を呈するなどのため、文献を参照するのみで本症を的確に診断することは不可能であつて、相当多数の症例を観察し訓練を受けるなどの特別の修練と経験とを積まなければ、その病変を正確に診断することが困難なものである。ところが、当時の眼科医界においては、本症に特別の関心のある極く少数の臨床医学研究者、眼科医のみが、自発的に修練を積み本症の診断に必要な技術を修得するという状態であつて、未熟児の眼底検査につき特に修練と経験を積んだ一般臨床眼科医は皆無に等しかつた。したがつて、昭和四七年一月当時においては、未熟児の眼底検査を行う訓練を受けていない眼科医としては、直像鏡による検査を行つていたことはやむをえないものであつた。
以上のとおり認められ<る。>
右認定事実に原審鑑定人大島健司の鑑定結果を併せ考えれば、昭和四七年一月当時における臨床眼科医の医療技術の一般的水準に照らし、未熟児の眼底検査を行う訓練を受けたことがなく、しかも、本症に初めて遭遇した原医師としては、本症の病変を発見しえなかつたのもやむをえなかつたものであつて、この点に注意義務の懈怠があつたものということはできないものと認められる。もつとも、<書証>および証言中には、直像鏡を使用して未熟児の眼底検査を実施した場合においても、光凝固治療の適期にまで進行した病変を発見することは可能である旨述べる部分があるが、前記各証拠と対比して考えれば、本症の診断に相当の経験と修練を積んだ眼科医の場合に妥当する事柄であつて、本症に初めて遭遇した原医師の場合について同一に論じえないものと認められる。
そうすると、美穂について本症の発症の発見ならびに転医が遅れ、光凝固治療の適期を失したことは、当時の医療水準に照らしやむをえなかつたものといわざるをえず、この点に関し今井医師および原医師に注意義務の懈怠があつたということはできない。右両医師に対し被控訴人ら主張の如き厳格な注意義務を要求することは、当時における医療水準を無視するものというのほかなく、到底採用し難い。
四以上のとおり、今井医師および原医師について、本件につき特段の注意義務の懈怠があつたものとは認め難いのであるから、その余の点について判断するまでもなく、控訴人が民法七一五条一項本文により本件損害賠償責任を負うものでないことが明らかである。
五被控訴人らは、控訴人は、総合病院たる八幡病院を経営していたものであり、同病院小児科において保育器を設置し酸素を補給して未熟児保育を行う以上、本症の発症を予見し、本症の結果失明に至るという事態を防止するため、眼科医をして小児科医に協力させ、一、二週間に一回の割合で未熟児の眼底について定期検診を行い、更に同病院に勤務する医師が右結果防止につき適切な医療を講ずることができないときは、他の人的物的設置を有する病院に転医させるべき義務がある、控訴人の経営する小倉病院においては既に右結果発生を防止しうべき人的物的設備がなされていたのであるから、右小倉病院の設置を有効に使用しうる体制を整えて置くべき注意義務があるのに、右義務を尽していなかつたものであるから、民法七〇九条により本件損害賠償義務を免れない旨主張する。
そもそも、医療は、医師の責任と判断において行われるべき業務であつて、病院経営者といえども、医師の医療上の判断や処置に容喙することは許されないのである。そうすると、病院経営者は、医師を兼ねている場合を除き、医療行為に関して直接注意義務を課せられることはないというべきである。被控訴人らの右主張は、医師でない控訴人について医療行為に関し注意義務のあることを前提とするものであつて、主張自体失当というほかなく到底採用できない。
第四結び
以上のとおりであるから、被控訴人らの本訴請求(附帯控訴にかかる請求を含め)はいずれも失当として棄却を免れない。
よつて、これと結論を異にする原判決中、控訴人敗訴部分を取消し、被控訴人らの本訴請求および本件附帯控訴をいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条、九三条一項を適用して、主文のとおり判決する。
(松村利智 金澤英一 早舩嘉一)